大阪ドームで最後の公式戦――球団名が消滅する近鉄

http://www.nikkei.co.jp/news/main/im20040924MS3M2400S24092004.html
nikkei netより

さようなら、バファローズ。いろいろな思い出ありがとう。
最後のホームの試合観にいこうと思ったけれど、仕事抜け出せなくなってしまい、無念残念。
オリックスは本当にバファローズという名前残してくれるんだろうか?阪急ブレーブス買収した時も、最初はオリックス・ブレーブスだったけれど、いつの間にかブルーウェーブに変えていたし。でも、変化もまた楽し、新しい風が吹きますように。

 茂木健一郎エッセー「脳の中の人生」第19回「なぜファンタジーに魅了されるのか」

茂木さんの日記の紹介文にある「スケール・エラー」という言葉に惹かれて拝読。
「スケール・エラー」(子供がおもちゃの車や家に入ろうとしたりする発達段階の行為の事らしい)という概念は言葉としては初めて聞くけれど、子供達の遊具や環境作りとかする時に、やはり無意識にイメージしていますね。大人の尺度だけで作られた近代的な都市が失ったのは、この「スケール・エラー」的な感性であり、フォークロアな小さな環境の良さかもしれない。

一部引用

「大きさの間違い」は、人間の「シンボル化の能力」の一つの表れである。動物ならば、大きさが何倍も何十倍も違う二つのものを「同じ」だと間違えることはない。人間だからこそ、実物の車に較べれば格段に小さいモデルカーを、本物の車と「等価」のシンボルと見なすことができるのである。

茂木健一郎エッセー「脳の中の人生」第19回「なぜファンタジーに魅了されるのか」
ミウリ・ウィークリー」(2004年9月19日号)http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

 茂木健一郎トークイベント 『脳内現象』を聞く

ブックファースト梅田店 の3階の喫茶コーナーでのトークショーを聞く。予約席は満員で後ろの立見というか立聞きコーナーで約2時間拝聴。いろいろと示唆に富んだコメントがあった。トークショーの後、サイン会があり、『脳内現象』購入してサイン頂く。
以下トークショーのメモ(会場ではメモ取らなかったので、少し僕の思い込み入っている)

現代は科学の世界と人文の世界とに二分化されている。そこに現代の限界がある。二分化された近代主義を作ったデカルト(「我思う故に我あり」)の過去のあらゆる存在に対する懐疑主義によってそれ以前の価値観はリセットされた。そして近代主義が行き詰まった現在、脳科学が意識の問題について考えることで、過去を再度リセットできる可能性がある(しかし、それは不可能とも思える程困難な作業である)
現代科学の最大の問題点は、ゾンビ問題(人間に意識がある、ということが科学にとって必要な条件ではない)である。
数値化不可能な感覚世界を扱う概念として、クオリアには二分化された世界をつなぐ可能性がある。
私達が世界を見るときに脳の中で誰が見通しているのか?近代科学は意識の中で世界を見渡しているホムンクルス的な存在を否定した(ホムンクルスの意識のなかのさらに見渡しているホムンクルスと無限循環に陥る為に)しかし、100億個もある脳細胞が同時に志向性を持って世界を見る時、ホムンクルス的な存在は否定できないのではないだろうか?
現代アートも文脈主義(デュシャンの泉等)から始まって、現在の村上隆的なスーパーフラット的なものに至ってみれば、現代アートもまた行き詰まっているのではないか。近代主義以前の伊藤若冲の絵画や長谷川等伯の松林図のように実物を前に2時間でも何時間でも見つづける事のできる魅力のある、文脈主義ではない言語化できない、クオリア的なものを持ったものを再考することから可能性が開けてくるだろう。
物理学の扱う時間は過去も現在も未来も区分が無いが、人間にとっては今現在という時間が大事。
声も重要。小林秀雄の「考えるヒント」を若いころ文字で読んでもよく分からなかったが、講演録で聴くと(落語家の円正のような語り口)まったく違ってユニークな発想として理解できた。
クオリアに寄り添う事で新しいイメージが生まれてくる。脳は脱抑制すれば、勝手に新しい発想を産む。

クオリアに寄り添うという部分は良いですね。今現在という時間が大事ということと、声の重要性については少し理解が難しいので、保留しておこうと思う。
茂木さんは建築に対して興味を強く持っておられるようだった。最近直接観られたという、安藤忠雄氏の地中美術館の包まれる感覚に衣服のスキンタッチや、それから連想される擬似母性的なイメージを語っていた。僕的には安藤建築の中に、イタリアのファシズム時代のジョゼッペ・テラーニ的な透明な強度のようなもの感じて、背中が凍りつく思いがあって、馴染まない感がある。僕的には、フォークロア的な笑える部分含んだ建築や、ランドスケープ的な閉じずに、果ても無いけれど不安でないような世界が好きですね。どちらが優れているという話ではないけれど。少し気になりました。

 アテネオリンピック サッカー決勝戦

アルゼンチンVSパラグアイ 1-0でアルゼンチン金メダル。
結果が出てみれば、日本代表は銀のパラグアイ、銅のイタリアに予選リーグで負け、この2チームに1勝1分けのガーナに勝ってた訳だから、勝利への戦略さえ間違わなければ、メダルの可能性ありましたね。イラクと同じく直前の南米選手権を同じメンバーで戦ったパラグアイセリエA開幕遅らせてメンバー揃えたイタリアもしかり、戦略の差ですね。さて、また4年後までのお楽しみ。

 アテネオリンピック サッカー3位決定戦

イタリアVSイラク 1-0でイタリア銅メダル。
イラクの健闘を祝す。アジア大会直前に治安悪化理由に監督辞任し、練習環境も整わない中で、同じメンバーで調整し、決勝トーナメント進出は賞賛に値する。日本にとってのドーハの悲劇が、フセイン政権崩壊後、恐怖政治の結果イラク選手の命懸けの戦いであった事を知り、あの最後の異常な勝利への執念の理由が理解できたんだけれど、アテネでの成果はまったく違うモチベーションに依るもの。平和に感謝、アテネも後少し、無事のフィナーレを願う。

 アテネオリンピック水泳会場

アテネオリンピックの水泳会場は最初、屋内プールとして計画されていたものが、工期が間に合わなくて、止む無く屋外プールになったものらしい。デザイナーからすれば、笑えない話であるが、怪我の功名というのか、アテネの強い日差しに打たれて水中の映像が屋内プールの比ではなく美しい。極限まで鍛え上げられた選手の肉体と、乱反射する光の揺らぎ。北島康介選手の平泳ぎの水中での一直線の水平姿勢は幾何学的でさえある。イアンソープ選手の黒の全身スーツ姿はシャチの感触。

 アテネオリンピック サッカー日本VSイタリア

2-3で予選敗退。セリエA開幕遅らせて選手揃えてきたイタリア=ヨーロッパと直前までアジア杯開催していたアジアのサッカーに賭ける情熱の差出たとしか言いようのない試合内容。アジア杯の時期がもう少しずれていて、A代表のDF入っていれば、違う結果になっていたと思う。既にブンデスリーグに出場している高原に対するドイツと日本のドクターの見解の違いも気になるな。かなり悔いの残る取り組み、采配、残念ですね。