茂木健一郎トークイベント 『脳内現象』を聞く

ブックファースト梅田店 の3階の喫茶コーナーでのトークショーを聞く。予約席は満員で後ろの立見というか立聞きコーナーで約2時間拝聴。いろいろと示唆に富んだコメントがあった。トークショーの後、サイン会があり、『脳内現象』購入してサイン頂く。
以下トークショーのメモ(会場ではメモ取らなかったので、少し僕の思い込み入っている)

現代は科学の世界と人文の世界とに二分化されている。そこに現代の限界がある。二分化された近代主義を作ったデカルト(「我思う故に我あり」)の過去のあらゆる存在に対する懐疑主義によってそれ以前の価値観はリセットされた。そして近代主義が行き詰まった現在、脳科学が意識の問題について考えることで、過去を再度リセットできる可能性がある(しかし、それは不可能とも思える程困難な作業である)
現代科学の最大の問題点は、ゾンビ問題(人間に意識がある、ということが科学にとって必要な条件ではない)である。
数値化不可能な感覚世界を扱う概念として、クオリアには二分化された世界をつなぐ可能性がある。
私達が世界を見るときに脳の中で誰が見通しているのか?近代科学は意識の中で世界を見渡しているホムンクルス的な存在を否定した(ホムンクルスの意識のなかのさらに見渡しているホムンクルスと無限循環に陥る為に)しかし、100億個もある脳細胞が同時に志向性を持って世界を見る時、ホムンクルス的な存在は否定できないのではないだろうか?
現代アートも文脈主義(デュシャンの泉等)から始まって、現在の村上隆的なスーパーフラット的なものに至ってみれば、現代アートもまた行き詰まっているのではないか。近代主義以前の伊藤若冲の絵画や長谷川等伯の松林図のように実物を前に2時間でも何時間でも見つづける事のできる魅力のある、文脈主義ではない言語化できない、クオリア的なものを持ったものを再考することから可能性が開けてくるだろう。
物理学の扱う時間は過去も現在も未来も区分が無いが、人間にとっては今現在という時間が大事。
声も重要。小林秀雄の「考えるヒント」を若いころ文字で読んでもよく分からなかったが、講演録で聴くと(落語家の円正のような語り口)まったく違ってユニークな発想として理解できた。
クオリアに寄り添う事で新しいイメージが生まれてくる。脳は脱抑制すれば、勝手に新しい発想を産む。

クオリアに寄り添うという部分は良いですね。今現在という時間が大事ということと、声の重要性については少し理解が難しいので、保留しておこうと思う。
茂木さんは建築に対して興味を強く持っておられるようだった。最近直接観られたという、安藤忠雄氏の地中美術館の包まれる感覚に衣服のスキンタッチや、それから連想される擬似母性的なイメージを語っていた。僕的には安藤建築の中に、イタリアのファシズム時代のジョゼッペ・テラーニ的な透明な強度のようなもの感じて、背中が凍りつく思いがあって、馴染まない感がある。僕的には、フォークロア的な笑える部分含んだ建築や、ランドスケープ的な閉じずに、果ても無いけれど不安でないような世界が好きですね。どちらが優れているという話ではないけれど。少し気になりました。