春日部幹さんとのハウスコンペでの議論(横浜の大桟橋客船ターミナルをめぐって)

eidostetsuro2003-11-05

建築家の春日部幹さんhttp://kasta.net/が、昨年のハウスコンペでの僕との議論を御自身のHPで再録されていた。当時を思い出して、自分の幼い思考に赤面する。反省を込めて僕もここに再録しよう。でも、他者との対話によって初めてそれまで無意識に考えていた事に具体的な形を与える場合もあるという意味で、やはり対話は重要である。

2323)Re: もう一度建築家の役割について 河野哲郎 @賛同設計者 2002/8/26 19:35
>アカウンタブルであろうとして、無理がきているのだと思います。
>特異なロケーションとコンペという形式がプレッシャーになったのかもしれません。


当方はたぶん違うと思います。(中略)
彼がコンペ案で考えた事はこういう事ではなかったかと思います。

従来の思考においては、言語とそれが指し示すものとの関係が分離していて、その事に悩みつつも、
むしろ積極的にその分離した関係を手掛かりにして生産性を高めるというのが基本的なスタンスであった。
しかし現代において、その関係が実は論理においても実生活においても当初から内破していて、
明確には分離し得ないのであると。
その時何を手掛かりに生産性を高めればよいのか?という提言だと思います。
そしてそのような理屈を超えて彼の建築が魅力があるのは「自分の分身」
のような私的な領域がなくとも充分魅力的な世界は作りえることを示しているところにあると思う。
決して春日部さんが言われるような「アカウンタブルであろうとして」あのようなフレームになったのではないと思います。

たぶん前日の日記でのハコダテスローマップについてのコメントでの「アイコンという言語とイメージの混合体は世界共通」であり、またローカルな世界も活性化するというアイデアが、春日部さんからの質疑としての「では彼は何を手掛かりにしたのですか?」に対する答の一部を形成するのではないかと思う。あの時は僕もよく答えられなかった。設計者のFOA(ポロ&ムサビ)達はランドスケープと顔的なものの混在を夢見たに違いない。寝そべるモアイのような印象も何となくある。だからシンメトリーなんだと思う。僕は無条件でこのようなバカバカしさが好きである。

言語とイメージの問題もまた、ライフワークになるだろう。それを考えるきっかけを与えてくれた春日部さんに感謝、そして大桟橋客船ターミナルの設計者のポロ&ムサビにも。

実は僕の親しい材木屋さんからこの少し前に電話があって、「今まで見た事も無いような複雑なデッキの見積依頼あったんだけど、とても手に負えないから図面作成サポートして欲しい」と。いろいろ聞いてみて、どうやら横浜のコンペの件というのが分かった。僕は現場施工中の視察を条件に了解したんだけど、残念ながら見積不調だったらしく僕は機会を失った。
でも竣工写真を見た時、やらなくて本当によかったと思いましたよ。これは。板で曲面作るのどれだけ大変かは一度経験すれば分かるけど、ここは想像を絶する。