「レイアウトの法則 アートとアフォーダンス」佐々木正人著を読む

eidostetsuro2003-11-10

最初に気になる部分先に読んで、最後に前書きとか後がき等をランダムに読む悪い癖は直らない。前書きのところ共感する。少し長いけど転載。

(前略)人に近づけば皮膚が見え、遠ざかれば顔が見える。山に近づけば木肌が見え、遠ざかれば森が見える。皮膚も、顔も、人も、木肌も、森も、山も、肌理である。
 このように肌理はどこにでもあり、そして肌理どうしは繋がっている。(中略)いままで見ていた肌理がどこで終わり、どこから新しい肌理が見え始めたかは言えない。(中略)
 本書がレイアウトとよぶのは、この肌理の性質を持つ周囲のことである。周囲にはレイアウトがある。レイアウトには他に例のない仕方で世界を繋げている。私達はレイアウトを知ることで、世界の「全体」を知ることになる。
 これまで人は、周囲にあることを物とよんできた。物には他との境界がある。だから一つずつ名前をつけられる。人は物を発見しては名前をつけてきた。辞書には膨大な名詞が収められている。人はさらに、物の輪郭を平面に表現する遠近法という技術を発明した。人は輪郭と言語、この二つで世界を明晰に記述できると考えてきた。
 しかし周囲にあることがレイアウトだとすると、世界を区切り取るこの方法は無効になる。
なぜならレイアウトには輪郭がない。入れ子しているレイアウトに名前をつけることには無理がある。(後略)
2003年7月25日 佐々木正人

以前に自分なりに感じる世界についてのメモに近いものがあった。
ここに転載する

顔/カオス           2001年5月4日 河野哲郎 
ground   figure                           
地      図
街区のなかの敷地
        地     図
        敷地のなかの庭
               地     図
               庭のなかの建物
                      地      図
                      建物のなかの部屋
                              地      図
                              部屋のなかの人間
                                      地      図
                                      人間のなかの顔
なめらかなシークエンスは知覚され、不可逆的な経験は無意識世界に痕跡(古相)を残す。それらは無意識の中の、夢の文法(夢相)によって、合成(分離、結合、順序のランダム化、カオス的な引き伸ばし折り畳み、分岐的/倍音的)されていく。そして改めて不連続に、意識によって捉えられた、これら無意識による生成物(図式と論理的関係=機能を含む)は、不完全ながら世界の全体像の断片(顔の認識に近接する)を示す。その繰り返しの過程に生じる方向性が、他者と共有可能な(様相)となる。

最初に見えた物=図(figure)に近づけば、いつのまにか地(ground)として包摂されていて、また進むと分岐していってという感じで僕達は視覚世界を感じる。引いていく時はその逆パターンだけれど、可逆的な経験ではなく、全ての感覚的な経験は不可逆的に繋がっている。JJギブソンや佐々木さんの言う「肌理」とはたぶんそんな世界を示すのではないかと思う。そしてクリエィティブな作業はそこに深く関わることから始まるに違いない。
 ただ、それと言語の事をまったく切り離して思考する方法は僕は取りたくないと感じる。「人は輪郭と言語、この二つで世界を明晰に記述できると考えてきた」という部分は、当然有効だし、レイアウト的世界と並立可能と思う。それと無意識の世界との関係もリンクするだろう。
 そして私達の視覚を支える脳の仕組みには、「顔細胞」仮説的に特定の形に反応する部分があるという研究結果もあり、特定の形を切り取り認識する事も人間の重要な能力の一つである。それと肌理の問題、レイアウトの問題は矛盾せず、並存可能であると思う。