のまdさんの問い掛け「村上隆批判」に対して

壁画や天井画、障壁画、襖絵のように、その場でないと経験できないアートへの、その独占に対するアンチとしての可搬的で大量生産的なアートも、しかし、クオリティが低いと判断されると、さまざまな批判にもさらされる。

最近の村上隆のアートへの賛否も、共感できるようなクオリテイのものを、現在の彼の共同制作的なアトリエ的方法で、彼が作れば解消されるのだろうか?
伊藤若冲的なクオリティのものを、彼が作ろうと思えば、アトリエの能力的には手法的には可能なはずと僕は感じる。そういう世界のもの何故作らないか(あえて作らないという戦略なのかもしれない)という視点も、また必要とも思う。
伊藤若冲の晩年の作は、というより若冲の作品は宗教的な祈りが込められていて、僕は最初にまず信仰的世界を感じるから、少し引いて見てしまう。共感はするけどね。
村上隆の最近の観音様のようなオブジェは、宗教的イコンもフィギュアも結局のところ人間の手によって、あらゆる部分が作られていることを改めて指し示す。
若冲もまた最晩年には五百羅漢を構想し、石像を寄進しているから、どこかで、村上隆は、若冲を詳細に研究して強く意識しているんだろうとも思う。

僕の心の師である彫刻家の福岡道雄先生のような、箱庭的世界を、次なる展開として、村上さんは戦略ねってるのかもしれない。そんな気もする。

何かこんな事ばっかり言ってて、もう何年も制作してない自分が嫌になってくる。何もしない時間も必要だけれど、同じ時間の間、作りつづけてきた知人、友人達の作品を見るたびに、継続は力と感じる。そろそろエンジン掛けよう。