「意識とはなにか」に対する川俣正氏の書評を読む

茂木健一郎さんの日記で紹介があり、拝読。http://6519.teacup.com/kenmogi/bbs
クオリアについての記述は茂木さんが引用されていますが、僕はものをつくるという観点から下記の記述に興味を感じました。

BRUTUS2004年2月15日号より一部引用
脳外科医に知り合いがいたことから、精神病院でのアートプロジェクトを進めています。もともとアーティストには統合失調症鬱病の人が多く、自分も含め、ギリギリのところで立ち止まっているから何とかものを創ることができている、ともいえる。今、一番興味があるのは、何かを知覚するだけではなく、そのもうひとつ先、自分で新しい感覚を生成、創造していく時に起こる「ジャンプ」とは何なのか、ということなんです。(後略)

「ぎりぎりのところで立ち止まっている」というのを自覚するのも困難なことではあるが、それは別として、川俣さんhttp://www5a.biglobe.ne.jp/~onthetab/newfiles/jap.htmlが「ジャンプ」と言われる部分はどのような状態なんだろうと思う。何となく水を暖めているうちにお湯になり沸騰してというような相転移的な劇的な変化を指し示すのであろうか?日常との、その段差によって世界を一瞬にして相対化してしまうようなアイデアを、彼は常に考えているように思う。
ただ彼が参照する、統合失調症鬱病的な精神の領域の働きは、先日引用した「ノンヒューマン環境論」http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622021986/ref=sr_aps_b_/250-1748175-0087403#product-details的なむしろ区別の曖昧化した段差の無い世界への近接の傾向の方が僕には強く感じられ、その劇的な変化の無さをアートと感じる事が、モダンアートの一つの特色であり、また限界も差し示すところでもあると思う。
深い部分での論理と表現の矛盾ではないかな。そしてそれは自分自身への問い掛けでもある。