「生成する生命 生命理論1」郡司ペギオ−幸夫著読む(借りる)

eidostetsuro2003-11-21

これもほとんど著者の御名前のユニークさで借りた感じ。中身はいきなり難しく返却までに読み終わらない感じですね。御名前のイメージでは「しゃべくりマジック漫談」みたいに易しく難解なコンセプトを解説してくれるのではないか?と期待したけれど、少し違った。クオリアの事も書かれているから茂木健一郎さんのグループなんだろうか?
郡司ペギオ−幸夫さんのHP http://www.kobe-u.ac.jp/~nlinear/gunji/
「はじめに」から少し引用

我々は、散歩していて川にぶつかったら引き返すことができる。引き返すのは意思決定の結果であるが、我々はこれを、ことさらに意思決定と考える事も無く、何気なく実現できてしまう。しかしこの意思決定を機械化しプログラムとして書き下そうとすると、大きな問題が生じ、原理的に機械化不可能に思える。大きな問題とは、自己言及とフレーム問題だ。何気ない意思決定を論理的に書き下そうとするとき、二つの障害ゆえに不可能が結論される。しかし私は、この何気ない意思決定を不可能と断ずることなく、擁護したい。「いかにして擁護可能か」という問題が本書の出発点である。(中略)

「散歩していて川にぶつかる」というところがポイントですね。これは意図して「川」なのか適当に「川」を選択したんだろうか?
川は何となく1次元の線のように見えたり、2次元でもあり、水に潜ると深さもある。それと人間の視線からは始まりと終わりの部分も視界から切れていて断片でしかない。全体像が分からなくても不安でもなく、微地形や水の流れに豊かなイメージを感じる。

もう少し「はじめに」から引用

こうして我々は、三項関係を見出すことになる。自己言及を構成する部分と、全体、それにフレーム問題が示唆する世界性である。部分と全体は、指し示すもの・記号と、指し示されるもの・記号の含意との関係を成し、世界性はこの関係を現前する文脈である。それは決して二元論に還元できる機制ではない。しかし、三項関係という見取り図は、現象を結果において語るものではあっても、生成という観点に対して無力である。むしろ進行する意思決定のような問題に立ち向かうとき、我々は二項関係と媒介者という形式を採用するべきではないか。(中略)

二項関係と媒介者というと何となく僕が好きなプラトンの「ティマイオス」に登場するデミウルゴス(造物主)を連想させる。二千数百年も前のギリシャ哲学と繋がるのだろうか?神と人間の中間項としての造物主。世界の物質の元を蓑に入れてふるいにかけるという。その蓑はどこから持ってきたんや?と突っ込む(のは止めよう)
僕の場合は建築をランドスケープと人間の中間項と考えてるけど、理論的にそれがどういう構成になっているのかと考えたことは無かったから、今回きちんと考えてみようかな。
もう少し引用

媒介者は、部分と全体を根拠付け、その成立の可能・不可能を決定する超越者ではない。例えばラカンによる発達・生成の説明は、常に二項対立とこれを相対化する超越者の審級から構成される。(中略)果たして超越者は、以前の二元論的世界に不可能を宣し、以後の二元論的世界の可能を根拠付け、両者を接続する媒介者として設定されている。

そして私が構成する媒介者=第三項は、このような、超越者として想定され得ない。

超越者は可能・不可能を決定し、両者を分離したのち接続する媒介者である。これに対して、フレーム問題から示唆される媒介者は、可能・不可能を共立させ、世界(もしくは個物にとっての全体)の確定や指し示しを、可能・不可能の軸と異なる地平で理解する装置である。

ペギオー難しい事考えてるね。でも何となく共感できそう。もう少し読んでみて良かったら購入しよう。
でも、これも2部構成なんだな。講義受けながらでないと難しそうです。この著者を知るきっかけになった建築家の難波和彦先生のHPの日記にも難解だったと感想書いておられる。こういう文体を専門的なジャーゴン(jargon)だと難波先生が指摘されている。T大教授が言うんだから間違いないね(?)
先生の日記から引用

『生成する生命』を読み終わる。正直言って文体についていけず、十分に理解できなかった。著者が参照しているドゥルーズガタリをほとんど読んだことがないので、用語や文体が最大のバリアになった。それでも著者が主張する「内部観測」の考え方は、ぼんやりとではあるが理解できた。要するに「内部」の視点を徹底すれば、論理的矛盾が否定的にとらえられることはなく、むしろ創造・生成の駆動力となるということだと思う。それを方法化したのが三項論理である。それは対立する二項論理を媒介する第三項という序列的な布置ではない。最初から三項が併存し、その相互作用が、論理的でありながら生成的でもある「弱い全体」を生みだすという考え方である。こうした考え方は、先月読んだ『生命記号論』(ジェスパー・ホフマイヤー:著)にも通ずるし、基本的にプラグマティックな態度でもあると思う。三項論理は二項論理を微細化し、より現実=内部に即した論理になっているという意味でプラグマティックなのである。そのあたりをもう少し突っ込んで考えてみたいので、次も同じテーマの『内部観測』(郡司ペギオー幸夫+松野孝一郎+オットー・E・レスラー:著 青土社 1997)を読んでみる。2003年11月20日
http://www.kai-workshop.com/index/index_diary.htm

ドゥルーズガタリもあまり詳しくないが、かなり以前に大阪にガタリさんが来て都市計画関係の講演会聞いた記憶がある。確かテーマは「主観性の回復」だったと思う。
でもペーパーを持ってただ読んでいくだけのもので内容ほとんど覚えていない。覚えているのは何故かゲストが辻本清美さんで、辻本さんが通っていた小学校の隣にラブホがあって、朝火事で下着姿のカップルが非常階段から逃げていく場面を語っていたことだけだしな。
ドゥルーズガタリそれにペギオーみんなユニークな名前だな。
ドゥルーズガタリどちらも今、検索してみると亡くなられていた。もう御話直接聞けませんね。講演会のメモ探してみよう。

 ジャーゴン(jargon)
(1)わけのわからない言葉
(2)素人にはわからない専門語.特殊用語