若冲幻想

eidostetsuro2004-01-18

若冲幻想という展覧会やってたらしい。
http://www.jakuchu.com/japan.html
現在はパリでやってるみたいですね。
伊藤若冲のコレクターのジョー・プライスが彼の自宅の風呂の壁を若冲のタイル画を再現してるとこ見た時も、随分、品のないことするなと思ったけれど、まだプライス氏はコレクターだから許せる。(コレクターだったら何やっても良いとは思わないけれど)
しかし、この若冲幻想という作品やってる人達はなに考えてるんだろう?アーティストの著作人格権侵害ですね。法則性丸見えのアートほど品のないものは無いでしょう?

若冲のモザイク画を現代人は、それを彼の作品とみなして再発掘している訳だけれど、若冲自身はどう考えていたんだろうか?(枡目描き :画面を方眼に分割して、一つ一つ彩色を施していく技法。1981年、小林忠氏が、この技法を用いた作品を若冲作として初めて紹介した。アートボンさんのHPよりhttp://park5.wakwak.com/~birdy/jakuchu/keyword/list.html

彼は版画と版の関係、西陣織の織と型紙の関係、石仏と下絵の関係のように、ネガとポジ的制作プロセスに相当興味を持っていたと想像する。
モザイク画はぎりぎりその中間点のような、複雑なテイストの混ざり合った作品である。落款の無いものもあるというのも、その点において理解しうる。
真筆とかアトリエ制作とかは問題ではないんだ。彼が何をもって「自分の作品」と見なしたか否かが重要なんだ。後世の人間が、鑑定を下すこともまた、まったくそれとはリンクしないことと思う。若冲より少し前の17世紀の西洋画家である、レンブラントの作品鑑定における真偽の判定の揺らぎはレンブラント工房における彼の作品への関わりの複雑さを示すものでもあり、また神経症的な現代人の心もまた同時に映す。http://www2.e-machi.ne.jp/aen/rembrandt/rrp/index.asp
「自分の作品」=「自分」というものもたえず揺らぐのでしょうね。僕のやってる建築の場合は、その辺りは非常にドライな関係で、分かりやすいから、何故ピュアアートだけが、こんなに真筆にこだわるのかという部分感じますね。ガウディの建築をガウディ自身が造ってないから、という議論は建築の場合だったらジョークでしかないけれど。
ジヨー・プライス氏のコレクションのHPにも若冲と工房の関係について解説している。

http://www.shinenkan.com/Index/JK_Frame.htm
After 1776, his studio produced many pictures that carry the seal or signature of Jakuchu but are not necessarily by him.

でも、このジョー・プライスさんは不思議な人ですね。以前NHKの若冲のドキュメンタリーの中のインタヴューで、29歳の時点で、若冲の実物でどうしても見れないものが、宮内庁所蔵の「動植綵絵」であったという。彼はそれから7年間も宮内庁に通い詰めて、何とか虫干しの時に閲覧できたという。若冲の「菊花流水図」を前に涙が止まらなかったという彼の気持ちは良く分かる。
ハピネス展に彼が「鳥獣花木図屏風」を貸し出したのは、今の日本人の反応を見たかったのかもしれない。善意と悪意が混じり合っているような気がしないでもないね。彼はHPに「鳥獣花木図屏風」は載せていないからね。
アートボンさんお勧めの書籍、図書館で借りて読んでみよう。「米国・心遠館コレクション 近世日本絵画集成」(「若冲画の摸写的習作か模擬的作品か」と解説されている作品も含まれています。との事)