石原慎太郎VS斎藤環対談を読む

石原慎太郎氏のことは、あまり良く分からなかったけれど、この対談読むと、奇妙な親近感感じてしまう。(政治的暴言は、とりあえず置いとく)
一部抜粋http://homepage3.nifty.com/tamakis/%8D%D6%93%A1%8A%C2/shintaro.html
最近うちの家に幽霊出たから(でも、母にやさしい声を掛けてくれたようだし、亡くなった父が帰ってきたとか、母は言ってるから、いいけれどね)この手の話に微妙に反応するね。

斎藤――もう一つ思い出すのは、人魂を網で取って水につけたら、鼻水みたいなものが残って気持ち悪かったという話(「ひとだま」)です。この描写もすごい。このリアリティは間違いなく文学的なものだと思うんですが。ここまで来ると、もう精神分析を放棄せざるを得ない(笑)。

石原――僕はわりとストレートにそういう話を信じるし、リアリティも感じられるんですよ。何年か前に五木寛之と対談したときも、「石原さんは人智を超えたものをぱっと信じてしまう。これは僕にとって困るんですよねえ」と言うから、「いや、これは体質、資質の問題だから、どちらが知的とか正しいという問題ではないでしょう」と答えたんだけどね。五木は「他力」で、僕は「自力」とされているけれども、実は僕のほうが「他力」なんだよ。でなければ父親との邂逅とか人魂なんて信じないよ(笑)。何なんだろうね、この資質というのは。

斎藤――もう脳にあるとしか言いようがないですね。心ではなくて脳にあるとしか言いようがない。

石原――脳も心じゃないですか。

斎藤――いや、そうなんですけど、言ってみれば脳がコンピュータで言えばハードウェアにあたり、心がソフトウェアだと考えた場合に、ソフトではなくハードに備わっているとしか言いようがないと思ったわけです。ハードの部分というのは分析できませんから、そこが「才能」とか「中心気質」といった言い方にしかならない理由だと思うんです。

 そこを新人論につなげて言えば、文学が衰弱したことの要因として、一つには落差というものがなくなったことと関係しているように思えるんです。いまはもう東西対立もなければ、貧富の差もない。とにかく落差が世界の至るところで消滅してしまった。本来ならそこから生まれてくるリビドーとか羨望のエネルギーとかが、小説を書く一つの原動力だと思うんですが。「落差の消滅」は、例えば「辺境がなくなった」と言い換えてもいい。ところが、石原さんの脳のなかには辺境がまだあるような気がするんです。これが一種の「体験力」みたいな資質につながっているんじゃないでしょうか。

 例えばオカルト的と申しましたが、オカルトにも合理の体系があるわけで、オカルト的な資質を持った人は、自分の体験をどうしても合理的に体系化しようとするわけです。しかし、石原さんはそうではない。

石原――僕は合理化しようと思わない。

斎藤――そこですね。そこのとどまり方が非常に稀有だと思うんですよ。

石原――そうですか。そのほうが要するにバリアントとして、生き方の間口が広くていいような気がするんだけどね。

斎藤――そういう距離感のある付き合い方が、いまは難しいと思うんですよ。

石原――生のままでいけば、そういうものが受け入れられると思うんだよ。小林秀雄のお母さんが救世教の熱心な信者でね。僕のおふくろもそうだったんだけれど、おふくろは病気を治してもらって、本当に生き返った。小林さんの母親もそういう経験があって、彼は母親から浄霊をしてもらったと言っていました。何かそういうものに対するアクセプタンスは合理性とかそんなことではないでしょう。もちろん小林さんの母親に対する愛着もあるだろうけど、小林さんは、そういうところで気がおけない人でね。非常に間口の広い人でしたよ。

僕はまったくどの宗教に対しても信仰心ないから、このまま、たぶん無信仰のまま、いくんだろうと思う。でも何かを信じている事は間違いないと思う。良く分からないけれど。今は言語化できないね。