福岡道雄展「飛ぶ蚯蚓(みみず)」

信濃橋画廊にて、福岡道雄展「飛ぶ蚯蚓(みみず)」を観る。(2004年12月6日〜18日)
もう25年以上前、10代の時に、福岡先生の作品初めて観て、アート作ろうと思うきっかけになったし、感想とか批評とかのレベル超えて、僕にとっては、福岡先生の作品観る事は喜び以外の何物でもない。ぜひ、世界中の人々に観てもらいたいものだ。

今回の展示は三点。黒のポリエチレン製の彫刻。
蚯蚓の自殺」楕円形の低い台座の上に、複数のミミズが、のたうち死んでいる光景。2点
「飛ぶ蚯蚓(みみず)」目の高さに合うように高く伸びる20センチ角ぐらいの台座の上に飛び上がろうとする感じのミミズが一匹居る。

福岡先生の著作、「何もすることがない」の中でも言われているように、置かれる彫刻以上に、黒い台座に惹かれるところがある。それは文楽人形遣いの黒子のようでもあり、意識と無意識を繋ぐ前意識のような、夢と現実の境界線のような光景を産んでいる。過去の黒い彫刻は概ね風景彫刻のような、箱庭的な縮小された世界が描かれていたけれど、このミミズの作品は原寸大の世界である。昆虫類は現実の命であるけれど、人間から見るとき、どこかで、何かのイメージの縮小版というか、原型は有りはしないがディフォルメされたような気分を起こさせると思う。ミミズはどうなんだろう?何かの縮小版という感じはしない、むしろアメーバとか目に見えない微生物的なものが、拡大され、視覚化されたような、そんなものかも知れない。無意識の判断の階梯の無い、並列的な世界へと、誘われる。

何もすることがない―彫刻家は釣りにでる

何もすることがない―彫刻家は釣りにでる

補足
1981年11月16日〜28日の信濃橋画廊での福岡道雄展に対する、美術評論家安黒正流氏の読売新聞美術批評欄でのコメントが、今も僕の心を打つ。
一部引用

妥協も放棄もしない三つの箱
(前略)福岡は、表面の模様と、箱の存在とが、同時に対等に一つの全体として知覚に働きかける”もの”を創造することに、頑張り抜くことの根拠を賭けた。その成功は、意味と素材との分裂の解決であり、四十代の作者に妥協か放棄かを迫る現代における創造の困難の、実存的な克服を意味する。(後略)

モンドリアンが唱えた「事物の真のヴィジョンを獲得する為に、行為と造形的現象と、共に明確にする事」というテーゼは、ある意味で、分裂してしまった20世紀のアートや思想の全体像を、象徴する。安黒氏のコメントは、そこを解体しようともがく、作り手の、感性に光を当てている。

 「何もすることがない」彫刻家 福岡道雄著を読む

そう言えば、先日オープンした国立国際美術館には先生の作品コレクション無かったな。

何もすることがない―彫刻家は釣りにでる

何もすることがない―彫刻家は釣りにでる

 「マルセル・デュシャンと20世紀美術展」を観る

展覧会と言うより、国立国際美術館が僕の好きな建築家のシーザー・ペリさん設計(日本事務所による)という事で期待して行く。シーザー・ペリさんの建築は、御人柄の明るさと同様に、親しみ易さがあります。パブリックな建築では、なかなか難しい事。今回の国立国際美術館はエントランスのガラスドーム(非常に複雑な形態)以外は全て地下という難しいプログラム。でも、そのことが、観るものにストレートにアート作品伝える仕組みともなって、良い空間になっていると感じる。
地下では人は無意識の領域に近づくのか、地下街やデパ地下の食品売り場の強烈な欲望の消費空間が、そこにはあり、物と人、人と人を融着させるような、意識の領域が薄くなっているような感じがします。
国立国際の地下もメインフロアーのB1Fに降りた時の床の磨かれた小さなモザイク状の赤い石が鮮やかに観客を迎え、私達の欲求を露出させるようです。そしてそれらをペリさんは、声高に主義主張として言われないとこも良いですね。
同じフロアーにはチャイルドルーム、授乳室も備えられ、子育て世代の観客も落ち着いて見れる配慮がある。レストランは元料理の鉄人、石鍋さんのお店、作品見る前にここで食事しましたが、美術館と同じテイストでインテリアまとめられていて、一体感のある演出も良かった。後ショップ含めてここまでは無料で入れるゾーンですから、ここを楽しむだけでも行く価値がありますね。(後はロッカールームがもう少しスペースがあって、コート類も収納できるサイズのロッカーであれば良かったですが)

マルセル・デュシャンと20世紀美術展」を観て
この美術館の柿落としの展覧会にデュシャンを選ばれた理由は、デュシャン自体ほとんど知らなかったので、よく分からなかったのですが、展覧会観た後では、この空間によく合っていると思いました。
地下が人の欲望を開放し、人と物、人と人との距離を近くさせる効果があるということと、デュシャンの作品の根底にある性的なイメージの露出とが、うまくマッチしているように思えました。初期の作品群(大ガラス中心に)は、その性的なイメージを暗示したり、分析的に、断片化し、再構成するような方法がとられていて、大ガラスの放棄後、その作品群のミニチュア(箱庭化とも言えるような)化によって自己のイメージのメタ化のような再操作がなされ、さらにその後ひそかに制作されていたというさまざまな性的イメージのオブジェ群は、分析的な硬さがまったく無くなって、直接的な、触覚的なイメージに変換している。そのメタ化の後の触覚的イメージへの変容の中に、デュシャンを単に過去の作家として、歴史として参照する以上の意味があると感じる。
http://www.nmao.go.jp/

 ジャック・デリダ著「コーラ プラトンの場」を読む(借りる)

デリダさん死去のニュースみて、新しいもの読みたくなった。僕の好きなプラトンのそれも、特にお気に入りの「ティマイオス」のテキストについての批判的言説。釈尊と同じ時代に生きたプラトンの著作の原本というのは、いったい何処にあるんだろう?それも読んで(見て)みたいという衝動に駆られる。

コーラ―プラトンの場 (ポイエーシス叢書)

コーラ―プラトンの場 (ポイエーシス叢書)

 京都市、町家再生の改修費に最大3分の2を補助

2004年度の予算は2000万円と、少ないようですが、町並みの継続が滑らかに進むよう、活用される事を期待します。フォークロアな建築のスケールは私達の無意識レベルに強く訴えるものがあり、それ故に景観イメージを、うまく繋げる力があると感じる。
僕が住んでる家兼アトリエも築50年以上経つ長屋をリフォームしたもの。子供が小さい時は、地域とのコミュニケーションも含めて考えると、相応しい環境と感じる。

http://nikkeibp.jp/wcs/leaf/CID/onair/jp/flash/339113
nikkeibp.jpより

http://www.city.kyoto.jp/koho/mayor/press/2004/pdf/20041020-02.pdf
京都市資料より

 仏哲学者のジャック・デリダさん死去

フランスの著名哲学者ジャック・デリダ氏が8日深夜から9日未明にかけて、膵臓がんのためパリの病院で死去した。74歳だった。AFP通信などが伝えた。
http://www.asahi.com/obituaries/update/1010/001.html
asahi/comより

御冥福を御祈りします。無意識世界と創造との関係について考える時、これからも繰り返し参照していくであろう膨大なテキストがそこにはありますね。